Unforgotten Dialogue (2021)

インタラクティブインスタレーション / オーディオビジュアルパフォーマンス
5’23”

私の研究における結論を実践したものの一例である。その研究の課題とは、「作品がどのような特徴を呈していれば、観賞者はその作品に対して自発的・創造的な行動を行うことができるのか」というもの。

この答えを求めようとした理由は、私自身が作品の鑑賞者であり制作者であるうえで、作品との関係性に関して考えざるを得ない問題が存在し続けていたことにある。観賞者としては、作品に対してただ何かが起こるのを待つことしかできないという感触があったこと。制作者としては、こと芸術に関する教育において、すべての要素に意味をもたせるべきであるという思想が強く根付いていたことである。

我々は作品を使って、何かを語らなければならないのだろうか。あるいは作品を理解し、読み解き、そこでやっと何かを得ることができるべきなのか。作品には必ずストーリーがなければならないのか。

私は、先の課題を解決できうるような、作品が呈すべき要素を導き出した。それは次の三つである。一つは、観賞者によるプロセス―すなわち作品の具現化のための具体的・現実的な行動―への受容性が明示的であること。次に、そのプロセスの持つ複雑性に応じた反応が返せること。そして最後に、充分な透明性をもっている―すなわち、いかに「それそのもの」であるかということ。

まず最初の要素は、言い換えれば、観賞者による具体的あるいは身体的な行動によって作品の姿や結果を変容させることができるということであり、作品がインタラクティブであるということと同義である。

二つ目について、たとえばこの作品で採用されているプロセス(作品に対して行う行動)は「声を出す」という動作である。この動作には、声のピッチとその変動、音量とその変動、リズム、言語、言葉の音要素(子音や母音)、選択した言葉の意味など、それ自体にあらゆる情報が含まれている。このようなたとえ単純で直感的な、トレーニングを必要としない行動であっても、それそのものが既に一定の複雑性を示しているために、豊かな差異をもたらす可能性を孕んでいる。誰が行っても同様の結果になるのではなく、その行動の持つ複雑性に対応して、個人個人に対して必ず異なった応答を返すことで、「その人自身がその作品に対峙している」という事実を増幅し強調する。

そして最後の、作品が透明であるという意味を明らかにするために、「透明でない」作品とは何かを説明する。透明でない作品とは、それ自身以外のなにものかを表したり暗示したりするなどして、観賞者をその作品そのものから意識をそらさせ、その外部にある「表している対象」に向けさせるものである。したがって、「透明である」作品とは、あらゆる暗示、メタファー、記号化、意味や事象の置き換えを前提としないということになる。これを実現するためには、鑑賞者が提示したプロセスが、別の意味や象徴にすり替わることなく、プロセスが含有するゆらぎや推進力を損なうこともなく、むしろ増幅して再表出することが求められるのである。

しかし、作品が表現するものがメタファーや記号であるか否かを明確に判断することは非常に困難であり、またそのための絶対的な基準が存在しているわけではない。なぜならそれを決定するのは、それを体験する観賞者であるからである。作者は、観賞者をコントロールすることはできないし、しようとするべきでもない。